{池内紀のじっくり味わうオーストリア} |
● (ドイツ文学者) |
バート・イシュルは景勝地ザルツカンマーグートのほぼ真ん中にある。日本流に言えば「イシュル温泉」であって、 イシュル川とトラウン川の合わさるところ、クーアハウスと公園を中心にして美しいホテルやレストランが軒を連ねている。決まった時刻に 公園の木陰でバート・イシュル・オーケストラが演奏をする。劇場には地方まわりの劇団やオペレッタの一座がやってくる。 トラウン川沿いの遊歩道を、のんびりと保養客が歩いている。あるいは日がな一日、カフェでおしゃべりしている。 いまでこそ、ヨーロッパきっての保養地だが、19世紀初頭までは何もなかった。成分の濃い温泉は、ただ意味もなく流れていた。 ナポレオン戦争のあとのウイーン会議が決着を見て、ヨーロッパに平和がよみがえったころである。にわかに海が注目を浴びた。 海水浴がもてはやされた。「海水は万病に効く」といいそやされた。北海、地中海、アドリア海、黒海に、あいついでリゾート地がひらかれた。 内陸部の人々は歯がみしてくやしがった。海水浴に行くためには何日もの大旅行をしなくてはならない。おりもおり、バート・イシュルの 温泉に目をとめた人がいた。つい目と鼻の先に立派な「海」があるではないか。しかもそこには、とびきりの「海水」があふれている。 海の食塩分はせいぜい、4パーセントであって、もっとも濃いとされる死海でも24パーセントにとどまるのに対して、 バート・イシュルの食塩泉は、27パーセントときている! さっそくクーアハウスがつくられた。公園や劇場、プロムナードが整備された。町当局は宣伝につとめたが、さしあたりは ザルツカンマーグートのおこぼれ客が立ち寄るぐらいだった。バート・イシュルの三方には2000メートルに近い山々があって、 登山中に足をくじいたのや、スリ傷を負ったのが運ばれてくる。その程度だった。 バート・イシュルが飛躍的な発展をみるのは、ハプスブルグ帝国の実質的には最後の皇帝フランツ・ヨーゼフが毎年ここに 来るようになってからである。フランツ・ヨーゼフは両親がバート・イシュル滞在中に身ごもったといわれ、「塩の王子」などと 呼ばれていた。狩が大好きだった。バート・イシュル近辺の山には鹿がどっさりいる。皇帝には温泉の濃さよりも鹿の多さが 気に入ったようだ。1850年代に別荘を建てた。大帝国の皇帝にしては、いたって質素な建物だった。 奥まったところに皇妃エリザベートのための別荘をつくり、また皇帝専用の礼拝堂を設けた。週日は鹿を殺す。日曜日には神に祈る。 皇帝がくれば貴族達もやってくる。大公、大貴族、ブルジョワたちが競うようにして別荘を建てた。夏のあいだ、ウイーンの 社交界が引っ越してきたぐあいだった。いまもヨハン・シュトラウスの旧邸、ブラームスのいた別荘、レハール記念館などが 残っているが、音楽家、芸術家、俳優たちが夏を過ごした。シュトラウスはここで『温泉ポルカ』をつくった。レハールのオペレッタは、 しばしば「湯治場」が舞台になっているが、バート・イシュルをモデルにしたにちがいない。ブラームスはこの温泉町で、 温泉名をタイトルにいただいた『バーデン・バーデン交響曲』を作曲した。 劇作家シュニッツラーのデビュー作はバート・イシュル劇場で初演された。 皇妃エリザベートは、はじめのうちこそやってきたが、やがて姿が見られなくなった。誇り高い彼女には、代用の海よりもホンモノの海のほうが よかったのだろう。船旅を好み、アドリア海や地中海を旅してまわった。 避暑地での皇妃役は、ブルク劇場の女優カタリーナ・シュラットに押しつけた。皇帝はもっぱら皇妃の代役と仲むつまじい夏をすごした。 いまは、皇室の別荘が「カイザーヴィラ」として一般公開されており、入場料を払いさいすれば、だれもが即席の皇帝になれる。 玄関を入ったところのホールの壁をうめた鹿の首におどろく。孤独な皇帝は、その首の数を数えて楽しんでいたらしい。 ヨーロッパの温泉は、湯につかるよりも鉱泉水を飲むのに主流が置かれている。バート・イシュルの食塩泉は、当然のことながら 塩からい。生ぬるくてショッぱいのを、一日に何度か、定められた量を飲む。どうしても湯につかりたい人用にはプールがある。 帽子とパンツ着用のこと。 湯の町の情緒には乏しいが、そのかわり新鮮な空気と、清潔な部屋と、絵のように美しい町並みがある。夕闇が訪れ、 カフェやレストランに灯りがともるころ、遊歩道を歩いていると、まるで夢の町にきたかのようだ。 幻の国にまよいこんだような錯覚がする。 |